Episode 07

1995年 阪神・淡路大震災においてライフプランナーとしての究極の使命を追求する

1995年に起こった阪神・淡路大震災。プルデンシャル生命においても、神戸支社が入るビルは全壊。神戸地区の住むライフプランナーは大きな被害を受けた。
彼らは、大阪に一旦避難しながらも、連絡のつかないお客さまの安否確認をするために、神戸に再び戻り、徒歩でお客さまの自宅や避難所を廻り、お客さま一人ひとりの安否確認を行った。未曾有の自然災害に当たって、生命保険ビジネスの、そしてライフプランナーとしての使命を追求した事例を紹介する。

1995年1月17日未明、阪神・淡路地区を震度7、マグニチュード7.3の大地震が襲い、未曾有の大被害が発生した。地震発生から数時間後、神戸支社から本社に「支社のあるビルが全壊」と一報が入る。ただちに、本社から大阪へ「現地救援隊」として社員3名が派遣された。
17日深夜、神戸支社の社員救出と被害状況確認のため、現地救援隊は大阪から神戸に向かった。真っ暗闇、余震の続く中の強行軍だった。深夜2時に出発した車は、朝6時ごろに神戸支社に到着。安否確認が済んだ社員とその家族を次々にピストン輸送し、避難先として用意した大阪のホテルに送り届けたのだ。

社員から死者は出なかったが、社員の家族が1名死亡。多くが住居の全半壊被害を受けた。しかし神戸支社のライフプランナーたちは、自らが避難生活を送りながら、早くもお客さまの安否確認を進めていた。
臨時オフィスとなった大阪市内の北大阪支社(当時)にて、約40名のライフプランナーが、5,000名を超えるお客さまへ電話をかけ続けた。だが混乱した状況下で、電話での確認作業は思うように進まない。震災から一週間が経過してなお、数百名のお客さまの安否が不明のままだった。

震災の被害がますます広がると報道される中で、ライフプランナーたちの間では自然に、「神戸に戻って、直接お客さまの安否を確認しよう」との声が上がった。捜索隊を設けて神戸に戻り、お客さま一人ひとりを歩いて探そうというのだ。「正直に言って、皆、命からがら神戸から脱出してきた者ばかりです。パニック状態ですし、大きな余震がくるともいわれていました。葛藤がなかったといえば嘘になります。ただ、お客さまが困ったときには助けに行くと、常々私たちは言い続けてきました。今こそその約束を守らなければ、という気持ちが大きかった。」と、彼らは当時の心境を語る。

捜索には神戸のみならず、関西地区の各支社のライフプランナーたちも参加した。実際に被災地に入る「捜索隊」と、引き続き大阪から電話確認を行う「後方支援」という体制を組む。単独行動は危険なため4~5人で一組になり、被災地区を5ブロックに分け、組ごとに各ブロックを回ることにした。
昼間はあまりに道路が混んでいて動きがとれないため、深夜3時におよそ20人が、バン2台に分乗して現地に入る。そして少しずつバンを移動させながら、朝から晩まで、お客さま一人ひとりを徒歩で探し回った。

捜索隊は、お客さまの自宅を探してインターホンを鳴らし、「担当の○○に代わってまいりました。ご無事でしたか」と訪ねて歩いた。不在の場合は隣近所に聞き、連絡先のメモとテレホンカードを残す。また、近くの避難所をこまめに回って、名簿を確認する作業も怠らなかった。お客さまにお会いできた時は「困ったことがあればご連絡を」とテレホンカードを渡した。見つからなかった場合は伝言板にメッセージを残し、責任者に頼んで次の避難所へと向かった。

探し当てたマンションが倒壊寸前、という事態にも直面した。崩れかかった階段を登らなくてはならない場合もあった。当時捜索に当たった、ライフプランナーの西内はこう語る。「ものすごく怖かった。でも自分の身内が生き埋めになっていると思えば、当然のように探しますよね。たとえ自分のお客さまでなくても、担当のライフプランナーがとても心配しているという気持ちが後押しになりました」。
無事に所在を探し当てられたお客さまは、心からの笑顔を見せてくれた。「身内よりも先に訪ねてきてくれた」「知っている顔を見てほっとした」との声が、つらい捜索活動の何よりの励みになった。最初は「こんなとこまで何しにきたんや」と怪訝な顔をされるお客さまもいらしたが、捜索の経緯を知ると、本当に驚いて喜んでくれたという。

その間、大阪の本部では、お客さまの自宅位置を書き込んだ大きな地図を張り出し、安否が分かり次第マークを消していった。捜索隊のメモを見たお客さまからも、次々に電話が入る。「メモを見て感動しました。こんな所まで来てくれてありがとう」「○○にいて、私も家族も無事です」というメッセージが続々と寄せられた。
交替でこのような活動を3日間続け、連絡のとれないお客さまは数十人にまで絞られた。次の週には残り数人になり、2週間程で全員の安否を確認することができた。

安否確認が終了した後、ライフプランナーたちは改めてお客さまに連絡し、それぞれの方の状況やニーズに応じて、さまざまなお手伝いをした。
怪我をした子どもの手当を手伝った。知り合いの工場から仕入れたお菓子を、子どもたちに持って行った。ポリバケツに水を入れて「水の宅配便です」と訪ねた。「少しだけれども・・・」とパンを持って行った。
このほかにもエピソードはたくさんある。いずれもその原動力となったのは、「万が一というときに寄り添う存在でありたい」との想いであった。

自ら被災した体験を踏まえながら、次のように語ったあるライフプランナーの言葉が、すべてを表している。
「ライフプランナーの存在意義を改めて考えさせられました。これだけの災害を経験したことはなく、本当に悲惨な状況を目の当たりにして、被害に遭われた人や、遺された人たちのために自分たちの仕事はあると実感しました。“保障”すること――すなわち健全な経営を行って、保険金を準備するのは会社の仕事。でもその保障を必ず提供しますよ、と“保証”するのはライフプランナーの仕事なのです。我々はあの震災を通じて、本当の意味でのライフプランナーになれたのでしょう」

プルデンシャル生命創業間もない頃の大災害。ライフプランナーは、困難を乗り越えてお客さまを思って動いた。プルデンシャル生命において、「阪神大震災で、ライフプランナーが避難所を廻り、一人ひとりのお客さまを捜した」というエピソードは、その後も社内で大切に語り継がれている。東日本大震災で、仙台支社のライフプランナーが宮城県内の避難所を回ったとき、熊本地震で、熊本支社のライフプランナーが南阿蘇や益城の避難所を回ったとき、彼らの心にあったのは、阪神大震災で先輩ライフプランナーが行ったことであった。

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